この半世紀以上、いつも、いつも、ココに戻ってくるクラちゃん= NK です。
最近は、そう森山大道展を見て、Yoshi-Aさんと Hologonさんを毎日熟読して、生意気盛りの新進写真家の気炎を iPhoneの向こうに聞かないと眠りにつけない日々の連続で、またまた、ここに戻ってきました。
40年昔のボクを遠くから見ていたというあるフォトグラファからメールをいただいたこともあって、またまた、戻ってきました。
日本の政治家はみんな政治屋に墜ちたし、世界経済は破綻の一途をたどっているし、自分の黒い腹を肥やすことしか頭にない官吏が跋扈するし、吾にこそ正義ありと荒ぶれる輩が日本を底なしのクラーい国に引きずり下ろしているし、教育の荒廃は目を覆うばかりだし、小松左京もやしきたかじんもいなくなったし、色狂い芸人が雛壇に並ぶTV番組は、バリくだらんし、読みたい本は本屋の棚の1/1000程度もないし・・・ということもあって、
さて、さて、閑だし、またまたここに戻ってきました。
誰だか覚えていませんが、英語の中で一番好きな単語は
locomotive だと言った文人(ネイティブだったか日本人だったかも覚えていません)がいました。
見ていい、発音していい、こんなに好きな英単語はない、と。
ボクは、
フォトジェニック(photogenic)という言葉がすきです。元の英語もカタカナ日本語も。
一般には「写真写りがいい」モデルなどのこととして使われていて、美容院の名前になったりしていますが、ボクには、もっと広義の「
写真になる」、写友との会話では「
絵になる」という意味です。

ずうっと不思議で、未だに答えが出ない問題がボクにあります。
それは、
街角で、あるいは、美しい大自然の中で、キャンバスを立てて絵筆をふるっている画家がいますが、何を描写しているのだろうと、覗き込んでも、フォトグラファーとしては絶対にカメラを向けないような構図の「絵」なんです。
そういえば、有名な絵画のどれほどがフォトジェニックでしょうか?
ミレーの「晩鐘」か「落穂拾い」あたりなら、興奮にファインダー曇らせながらレンズ向けるでしょうが、レンブラントとかルノワールとかが描く絵の構図、ポンカメ月例なら「せっかくの被写体ですからもうひとひねりが欲しかった。平凡すぎてこれなら誰が撮っても同じ」ということで佳作でボツでしょうね。
なぜ? という問題です。
この「
絵になる」という言葉は、しかしながら、どうも最近イヤになってきました。そういうフォトグラファーのこじんまりとした捉え方を拒否するパワーというかエネルギーというか存在感というかオーラというか、そういうものを発揮しながら、万物はあるのだ、ということに気付き始めたのです。
大きな反省です。大きな転機かも。
フォトグラファー主導の「作品創り」よりも、被写体をして語らしめよ、ということでしょう。これは写真の原点かもしれませんが、しかし、フォトアートの自己否定かもしれません(まだそんなこと言うてる?)
木村伊兵衛や奈良原一光や植田正治や細江英江は神とあがめても、土門拳の「室生寺」をどうしてもイイと思ったことのない、ディレッタントとしてのボクの若い頃がありました。アラーキーや森山大道がさっぱりわからないNKでした。
象徴的なボクの20歳代の作品を載せます。
「日本カメラ」か「フォトアート」しか相手にしなかった生意気盛りのNKでした。「アサヒカメラ」は優柔不断で、なんでもありで、なんでもなし、と無視していた(相手が無視していたって!)クラちゃんでした。

Takarazuka, Osaka (1963) Nikon F, Nikkor 105mm 1:4, (f16 1/15
「日本カメラ」1963年7月号所載(月例第1位)
(佐藤 明 評) 作品の傾向が特異で、同じ関西の北村新一路氏と共に関西勢の一人としてがんばっているが、すごくモノクロームの世界のカラー表現に興味をもっていて、いい作品がある‥‥。どちらかというと小さい部分を追いつめて、デリケートな神経でまとめる才能がある。カラーの撮影条件のいわゆる悪い所で、かえってそれを利用して面白い効果を見せている。露出計の上での悪条件は、自分が撮りたいと思えば大きな障害となるものではないと思うのだが、その点この人の作品はいい例だと思う。